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竹林のゆとりブログ

山奥で生活し、日々の思いをつらつらと書くブログ。 IT、数学、アニメなど。

論理的であるとは?

雑記

最近気づいたのだが、 論理的とは、相手が納得できることであって、万人が納得できるものではない。
もっと言うと、論理的という性質は場や人に応じて、変化するものである。

今回はそれを主張したい。

論理的の定義

論理的は一般的には以下のように説明されます。

物事に対して、筋道だった展開で説明されていること

例えば、正しいが、因果関係がない文章。

日本における義務教育の期間は9年である。

なぜ義務教育が9年なのかは、日本の法律で定めたからだが。それが特に記載がない。 そこまで記載されて、論理的ということである。

ここまでだったら、論理的というものが場に依存するものだと思わないかもしれない。 そのため、以下で論理的が場に依存することを説明します。

きっかけ

センスは知識からはじまる

センスは知識からはじまる

この本を読んだこと

この本の主張を要約するとこんな感じ。

センスは一般的には、生まれついた、感覚的なものだと言われるが、実際は知識に基づいた、論理的なものであり、それを証明する

だが、この本を読んでもその主張は全く納得できなかった。

知識を蓄えながら何を王道(≒センスのいいもの)だと定めるのか、また、筆者のアイディアの例が、感覚的としか言えなかったからである。

補足しておくが、この本が悪い本であると言ってるのではない。示唆に富む内容はあったが、論理的であるとはとても思えないということである。

もっと言うと、作者は数学ができないタイプの人間に見えた。

しかし、この本の評価を軽く調べてみると、わかりやすく筋道だっているという評価を受けている。

例は、これだけではない。

プログラムの教科書に対する違和感。

プログラムの教科書っていつもすごく違和感がある。

私は教科書にはルールを記載してくれればいいと思っているのだが、私の理解ではルールが足りない。

例えばrubyで以下があったとする。

puts hello world

この時に、改行するか、否か、文字コード、改行コード、禁則文字等について触れられることがほとんどない。

それはルールの説明不足としか思えないのである。

もちろん、最初のほうは初心者に説明するのだからというかもしれないが、それなら初心者に向けた、多くの場合はこうなる。詳細は後述するなどという記載があればいいと思うのだが、そんなものを見たことがない。

それ以前に、これらを必ず書くという思想がある場合、これらを簡単に書く記法や言語体系になると思う。

だが、現実はそうなっていない。そのため、プログラムの教科書は教科書の癖に条件の説明が足りておらず、僕からすると全く論理的ではない。

だから、私からするとプログラミングの教科書は全く論理的でないし、それをベースに説明する人達も論理的であるとは思えない。 しかし、一般的には教科書は論理的であると考えられている。

 友達とのアプリのアイディア出し。

アイディア出しで素晴らしく独創的なアイディアを出す友達がいる。 しかも、そのアイディアをみていると、一定のルールがあるように見えてきたのだ。

僕の目から見ると『面白さ』、『見た目の気持ちよさ』とはこういうものというものが本人の中にあり、そうした感覚を刺激するためにはどうしようかという観点で考えているように見える。

だから、思考のプロセスにルールはあるし、アプリのアイディア出しという場において説得力がある。 そのため、私はそのスキルがとても論理的であるように感じている。

だが、アイディア出しのスキルの高さは一般的に論理的とは言わないと思う。

また、友達も、専門書を読む、複雑なプログラムを組むという行為がどちらかというと苦手なため、自分が論理的でないと考えている。
ここで自分を卑下することはとても悲しいと思っているが

この例は、私は論理的であると感じるのに一般的に論理的でないものもあるということを示している。

これらを見たときに、最初の結論にわたしは至ったのである。

まとめ

筋道だってわかりやすいかどうかは、人、状況に依存するものであって、不変の性質ではないということである。 だから、わかりやすいを実現するためにはお互いが歩み寄らないといけない。

余談

人や場に依存することから付随して起きる問題として、マジョリティにとって正しいことが論理的であり、正しいことと帰結されるということである。

でも、私はその多数派の暴力が嫌いなので、こうして警鐘を鳴らしていきたい。